権威との葛藤(その5)

権威との葛藤のまとめです。

権威との葛藤とは・・・

権威に対して敵意を持つ事である。

 

そのことにより

自分が権威を持つ事を恐れる事である。

 

すると

周りの人たちに自分を与えることをしなくなる。

つまり

社会性の欠如が起きる。

ということである。

 

権威との葛藤の態度としては2種類ある。

従順に従う良い子になるか、何にでも反抗する悪い子になるか。

 

権威との葛藤を解消する鍵は、

権威者の立場を理解する事。

権威者とコミュニケーションをとる事。

自分の影響力を自覚する事。

である。

とまとめてみました。

サポート

言葉でいうのは簡単です。

実際に権威との葛藤を抜けるためには、誰かの助けが必要かもしれません。

思考レベルだけでなく、感情レベルのことが関係しているからです。

僕にできることは、個人セッションなどでサポートすることですね。

権威との葛藤の連載はコチラ

  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

権威との葛藤(その4)

権威を自分自身に取り戻す。

これは僕が心理セラピーを通じて一貫して伝えていることです。

権威を誰かに何かに明け渡していると自分自身はどこにもない状態になります。

子どもは誰だに育ててもらわないと一人では生きていけないので依存しています。

それが第一次反抗期、第二次反抗期を経て、自立をしていきます。

それが大人になっていくということです。

第一次反抗期にあたる幼年期、第二次反抗期にあたる青年期の体験が権威との付き合い方に大きく影響をしています。

権威に従順に従う人もいれば、権威に徹底的に反抗する人まで様々です。

もし、大人になって生きづらさを感じている人は、健全な自立ができていないのかもしれません。

社会

今日は社会との葛藤の話をします。

権威との葛藤をしている人で、社会的に幸せに成功している人には皆無です。

なぜなら、成功するというのは、お金を稼いだり、地位をえたりしていきます。

これは何を意味しているかといえば、他人に影響を与えていくということなのです。

社会的な活動というのは、誰かの何かの役に立つことです。

簡単に言えば、誰かを笑顔にすることです。

多くの人を喜ばせたり、一人の人をむちゃくちゃ喜ばせたりすることの結果として、お金が入って来たり、地位が上がったり、名誉が手に入るのです。

権威的な部分をゴールにしていくと何がなんだかわからない状態になることも多いです。

 

権威との葛藤がある人は、自分自身が権威を手に入れることを恐れています。

お金持ちになったり、社会的な地位をえたり、名誉をえることを極端に嫌います。

なぜなら、権威との葛藤がある人は、お金持ちが嫌いだし、権力を持っている人が嫌いだし、名誉がある人が嫌いです。

嫌いな理由は多々あるでしょう。

この嫌っているというのも、意識的にわかっている場合もあれば、無意識で気付いていないこともあります。

 

権威は影響力です。どれだけ多くの人に深く影響を与えるのか。

極端に走れば、権威との葛藤がある人は隠遁者になります。誰にも会わずに影響を与えようとしない。

人と接することを極端に減らしていることさえあります。

 

僕も権威は嫌いでした。

お金持ちは悪い人だと思っていたし、社長や上司は悪い人だと思っていたし、政治家や力を持っている人は悪い人だと思っていました。

水戸黄門などの時代劇で「越後屋、お主も悪よのう。」と殿様や家老という権力者と儲かっている商人が手を組んで庶民に悪いことをするという物語を当たり前のように見ていたからかもしれません。

徹底的に反抗をするという方法をとりました。

これって何も考えないでとても楽な方法です。

権威者が言うことに「No」といえばいいだけだから。

あれもNo! これもNo! みんなNo!

子どものイヤイヤ期かっ!(笑)というくらいに反対していればいいのです。

この反抗は、権威者がいなければ成り立ちません。

権威者がいることで、はじめてNoが言えるのです。

あたかも自立をしているようで、権威者に依存をしている状態なのです。

「だったら、自分でやってみろ!」っていいたくもなるんです。

 

でもね、自分ではできないんです。

なぜなら、自分から事を起こして何かをしたら権威者になる。

権威者になってしまったら、自分が権威者にやっていたように、誰かに攻撃されると思っているからです。

それは恐ろしいことです。

 

他人の権威者を否定すればするほ、自分に権威がなくなっていきます。

えっ?そうなの?と思う人もいるでしょう。

そういう人は、他人の権威を失墜させれば、相対的に自分の権威が上がると信じています。

ここ、ポイントです。違うのです。

他人の権威を奪えば、自分の権威も奪われるのです。

そのことによって、自尊心の欠如が起こります。

自己イメージも低くなれば、元気でさえもなくなります。

案外、社会問題を扱っている良い人に見える人たちに多いのです。

反対したり怒っている時だけ、元気なのです。だから反抗しているのでしょう。

 

で、僕もご多分に漏れず反抗をしていました。

権威にたいして反抗をしていたのです。

今よりももっと多くの人に、社会に役立つ人になろうと決めた2012年でした。

そう決めたけれど、なかなか、動けない自分ににモヤモヤしていたりもしていました。

リーダーシップを発揮して、よりよい社会にしていこうと思っているのにです。

そこでテーマとして「権威との葛藤だな」と直感的に思いました。

自分が権威を持つ事に恐れを感じているのです。

その前に、権威に対して敵意を持っていないか考えてみました。

あったんです。大物が。

いろいろな経緯はあるんだけれど、あきらかに濡れ衣をかぶせていたんです。

だから、僕自身も濡れ衣をかぶされる経験もしたのでしょう。

 

その権威との象徴的な人について徹底的に見直しました。

まず、やったことは、相手の気持ちになること。

こちらが敵意や恐怖を感じているということは、相手も同じように感じているのです。

何を感じているのか?それを書きだしました。

不思議と、権威者の気持ちがよくわかってきます。

権威者も愛を持って行動していることがわかってきます。

でも、許せない(笑)

なので、うちの奥さんにセッションをしてもらったりしました。

で、葛藤そのものは薄くはなってきていました。

でも、なくならない。

なぜなら、セッションはバーチャルだから。

現実に対してアプローチをできない無力な自分を演じていたのです。

 

ところが、チャンスというものは準備をしていればやってくるものです。

当事者と話をする機会がやってきたのです。ほぼ偶然に。

そこで、腹を割って話をしました。

書き出した経験から思考レベルについてはバッチリわかっているし、セッションをしたことで感情についても癒されていたからです。

話してみたわかったことは、「大きな誤解」をしていたとということです。

権威者というイメージを自分の心の中で創り出し、権威者本人をみることなく、相手にかぶせた仮面に対して、敵意を持って攻撃していたということです。

権威者という着ぐるみに対して攻撃していたというかなんというか。。。

これに気づいた時に、「穴が会ったら入りたい」というのはこういうことかという自覚を持ちました。

恥ずかしい。なんて恥ずかしいことをしていたのだと。

 

こちらがオープンになれば、相手もオープンになります。

僕の中で大きく何かが動きました。

 

僕にとって2012年は「葛藤」がテーマの年でした。

12月にめでたく「権威との葛藤」というネガティブな物語を卒業できた年になりました。

葛藤に向き合ったからこそ、手に入れたことも多かったです。

2013年は「創造」がテーマの年になると予想しています。

楽しみです。

このシリーズも4回書いたので、総括を書きますね。

 

権威との葛藤の連載はコチラ

  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

権威との葛藤(その3)

父と息子という視点から権威との葛藤について、前回書きました。

娘の場合はどうなのか?

そんな質問をいただきました。

 

もちろん、女性の権威との葛藤もあります。

ただ、これは男性の権威との葛藤よりももっと複雑になっていきます。

母と娘

女性と母親の葛藤もあるんです。

これは権威との葛藤というよりも幸せの葛藤であることが多いです。

男性は社会の象徴とみるのに対して、女性は家庭の象徴とみます。

家庭とは個人的な幸せと豊かさにつながっています。

母娘の関係性を癒すことは、幸せになることにつながっています。

 

女性の権威との葛藤に戻しましょう。

現代は女性も社会進出しています。それが普通のことになってきました。

ここ数十年のことです。

ところが、日本でもちょっと昔を考えると男性は外、女性は内ということが常識でした。

まだ、日本の社会における女性の社会進出は、きびしいと言われています。

社会で活躍するために女性を捨てて男性の役割を演じていることも多いのです。

女性の権威の葛藤は、男女という水平的な葛藤と親子の垂直的な葛藤の2つを抱えることになります。

 

日本語の特質も女性の社会進出を妨げていると言われています。

日本語は上下関係の言葉であり、方向性があります。

しかも何かを指示する言葉で女性から男性に話す言葉がないと言っている方もいます。

なので、対話をするには、難しい言語なのだそうです。

この話は、平田オリザ著「わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か」の一読をお勧めします。

日本語もさらに進化する必要があるのですね。(言語は正しい言葉があるのではなく、常に変化し続けるものです。)

 

個人のテーマでもあり、社会のテーマでもあるのが女性の権威との葛藤なのです。

ここでも大切になるのは、戦うのではなく、コミュニケーションが鍵となります。

それと自己イメージも大切な要素になってきます。

 

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  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

権威との葛藤(その2)

権威との葛藤とは、権威を持つ人に敵意を持つことです。

そのことで良い子をやったり悪い子をやったりするという話を前回しました。

権威に対して最初に敵意を持つ人は、父親という人が多いです。

父親とは権威や社会の象徴であるからです。

父と子

古今東西でよく聴く話は、息子が父親に反感を持つというものです。

 

これを感じたことがある人は多いのではないでしょうか。

もちろん、父親に反抗して、「絶対に、あぁはならない!」と思っていたこともあります。

すると不思議になもので父親に似て来るんですね。

父親に似て来るのです。同族嫌悪が生まれてさらに嫌いになったりします。

これをさらに深くみていくと、父親も祖父に対して反抗していたことがあることが多いです。

男性の親子関係で受け継がれている習慣とでもいうのでしょうか。

感情も深い所では、好きも嫌いも同じなのです。

好きという感情のポジティブなエネルギーを相手に送るか、嫌いというネガティブなエネルギーを送るかの差で、エネルギーの質は同じなのです。

ここでいうエネルギーというものは感情のエネルギーで、ニュートラルで、ポジティブでもネガティブでもありません。

その人の解釈でポジにもネガにもなるのです。

権威との葛藤あれば、それはもちろんネガティブに働きます。

権威に媚びを売るか反逆するか。

 

父親との葛藤を癒すには、父親という役割を理解したり、父親の前に一人の男性として受け入れることが大切になってきます。

そのためにもコミュニケーションが大切になってきます。

イラッと来ても話をしてみることが大切です(笑)

そうやって少しずつ葛藤を癒していく必要があります。

僕もたくさんのセラピーを受けたりして自分を癒しながら少しずつ距離を近づけていきました。

 

父親との葛藤は癒したのだけれど、次に待っていたテーマがあったのです。

父親の先にある存在。社会です。

 

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  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

権威との葛藤(その1)

「権威との葛藤」という大きなテーマが心理学世界ではあります。

これは特に仕事やリーダーシップに大きな影響を与えます。

「権威との葛藤」をシンプルに言えば「権威を持つ人に敵意を持つ」ことです。

例えば、

  • 親が悪い
  • 上司が悪い
  • 組織が悪い
  • 社会が悪い
  • 日本が悪い
  • 世界が悪い

というような自分よりも権威を持っている人や何かに対して反発している状態なのです。

反抗期というのは、自分以外の権威を否定することに始まります。

自立をしていくプロセスで必要なエネルギーでもあります。

 

「ならば、いいじゃないか。」と思われますが、問題もあるのです。

自分が他者の権威に敵意を持っている、自分が権威を持った時に誰かに敵意を持たれるのではないか、という恐怖を心の奥底で感じているのが問題です。

この恐怖は気付いている場合もあれば、気づいていない場合もあります。

権威に対して敵意が強ければ強いほど、自分が権威を持つことを恐れる。

だから、権威を持つことをしないということが起きるのです。

無意識に権威を持たない選択をし続けるのです。

するとどうなるか?

自尊心がなくなっていきます。

自分自身の権威をも否定しまうからです。

権威との葛藤

 

権威との葛藤があると、権威がある人たちに反抗的になります。

いい子として反抗するパターンと悪い子として反抗するパターンがあります。

悪い子は権威を攻撃するからわかりやすいですね。いい子は自分を攻撃しているので、一見わかりずらいです。

攻撃をするという点では同じです。

権威に対して反抗するというのは、非建設的です。

簡単な反抗は、権威のすべてを否定すればいいのです。

対話の余地すらなく反抗していればいいのです。

 

自分がリーダーシップを発揮して、権威を持つ時に問題が生じます。

リーダーシップを発揮しようとしないのです。

リーダーを攻撃してきたので、自分自身がリーダーになりたくないんです。

だって、自分が攻撃してきた時のように攻撃されると思うから。

 

リーダーの本質は、自ら与える人です。

誰もがリーダーシップを持っているし、発揮する必要があるものです。

特に仕事は、誰かに喜びを与えて、その報酬としてお金を頂きます。

喜びはモノであったり、サービスであったり、様々なものです。

人間関係でもそうですね。愛を与えるのもリーダーシップです。

 

権威者に反抗するだけでなく、自らが与えない選択をしている状態も権威との葛藤していることになるのです。

 

では、どうしたらいいのでしょう?

僕の体験を通じて話していきます。

■権威との葛藤の連載はコチラ

  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

サンタクロースはいるんだ

クリスマスになると思い出す新聞記事です。

Dozens of Santa Claus came to Xmas party at Amo-san's house!

ニューヨーク・サン新聞 1897年9月21日

社説欄 本紙は、以下に掲載される投書に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が読者におられることを、心から嬉しく思います。

「こんにちは、しんぶんのおじさん。

わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、サンしんぶん、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?

ヴァージニア・オハンロン」

 ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。 じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どものすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれる子どもたちのかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。

サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいもいないっていうんだろうね。だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。

あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、よりそう気もちや、だれかを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? ヴァージニア、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。

サンタクロースはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。ヴァージニア、何ぜん年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。

※ そのあと、ヴァージニアはニューヨークの学校の先生になって、四七年間子どもたちを教えつづけたそうです。

Yes, Virginia, There is a Santa Claus
サンタクロースはいるんだ
The New York Sun (written by Francis Pharcellus Church) 
ニューヨーク・サン紙社説(担当:フランシス・ファーセラス・チャーチ)
大久保ゆう訳

メリークリスマス!


焼きおにぎり

今日、昨日残ったご飯で焼きおにぎりを作った。

焼き網に冷えたおにぎりを置く。

醤油はハケなど使わずにそのままかけてしまう。

白いご飯と醤油ご飯がまだらになっているのが美味いのだ。

懐かしい味だなぁと食べる。

あぁ、これは母親が作ってくれた焼きおにぎりの味だ、と思い出す。

子どもの頃に食べたものが美味いと感じる。

味付けは母親の味付けにそっくりだ。

特に習ったわけでもないのに、おふくろの味は伝承されている。

母親が亡くなって18年。今日が命日。

偶然なのか必然なのか。

親の影響がありがたいと思える歳になったんだなぁ。


自分の現実を創っているのは自分なのです。

僕はこの言葉に衝撃を受けた。

「自分の現実を創っているのは自分だって?」

世界は生まれる前からあったし、僕がいてもいなくても動いているものだと思っていた。

自分を見つめているうちに「本当に創っているかも」と思ってきた。

だって、その人に感じているストレスを外すと、嫌いな人がどうでもいい人になったりするんです。

どうでもいいとは、ほとんど気にならなくなったりするんです。

ましてや、関係性が良好になっていったりしたんです。

Time Jumper

それでも、自分で現実を創っているとは思えませんでした。

この言葉は実に奥が深くて、時おりパラダイムシフトが起きる。

「あぁ!」という気づきで、言葉に対する洞察が変わっていくのだ。

 

「好きなこと仕事にしたいなぁ」

「この人と結婚したらどうなるんだろう。」

そんなことを思っていたら、現実にそうなってしまった。

 

これも段階があって、このぼんやりとしたイメージからスタートして、自分を見つめたり行動したりしているうちに、イメージがさらに明確化していく。

イメージのはじめはピントがあっていない写真みたいなもの。

それでもエネルギーをかけていくとピントがあってきて、

「あぁ、こういう現実を求めているんだ!それやりたい!」

と見えてくることがあるんですよね。

 

それを次々に実現していっても「自分の現実を創っているのは自分なのです。」という言葉は「そうかもね。そうだよね。」と思っているくらいでした。

 

とある時にメンターと話をしていて「僕はいつでもお金を作れるし、その気になったらすぐになりたいものになれるんです。」と話をされました。

本当に、これをやりたいと思ったらどんな方法を使っても実現する人でした。

その時に頭の中の配線がガガガっと音を立てて変わった気がしたのです。

「自分の現実を創っているのは自分なのです。」

という言葉がわかったんです。

本当にそうだ!その人が現実を創っているんだ!ということがわかったのです。

 

言葉にすると単純で、

「できないと思っている人はできないし、できると思っている人にはできる。」

ということなのです。

 

認知心理学的にいえば、物事を見ているのは人それぞれなんです。

誰もが同じ世界を生きていると思っているだけで、実際には、その人が見たいように世界を見ているだけです。

本当の現実なんていうものはないのです。

みんな自分が見たいように見ているバーチャルな世界なようなものです。

 

だとしたら・・・自分が現実を創っているということを認めたとしたら・・・自分の人生を自由自在に変えることができるのです。

そこにはルールがあって、変えることができることと、変えることができなことがある。

ゲームはルールがなければ成立しないし、面白くないのです。

変えることができないことは受け入れる知性が必要だし、変えることができることは変えたければ変えるようにすればいいのです。

自分の現実を創っているのは自分なのです。

この一文に魅せられて、ずっと人の不思議を探求していくのだろうなと思った朝でした。

今日も良い1日を!


才能心理学

今年、学んだことのひとつに才能心理学があります。

6ヶ月かけて才能とは何かを徹底的に学びました。

そこで得た結論は、

「特別な才能は必要ない。」

ということ。言い方を変えれば、

「誰にでも才能はある。」

ということ。

 

才能はその人の生まれてきた環境、境遇、経験が関係しています。

恵まれていた「ある」こと、恵まれていなかった「ない」ことに注目します。

「ある」人は、その良かったことを広めようとする人、

「ない」人は、なかったことをあることにしようとする人です。

「ない」状態から「ある」状態に変える物語を歩むことになります。

これは英雄物語と同じですね。

 

6ヶ月の講座をまとめた1日集中セミナーのお手伝いをしてきました。

才能心理学1日集中セミナー

講座の裏方をやるのはめったにないので勉強になります。

基本セミナーでは集中するために前に座るし、講師の立ち位置に慣れているのもあります。

後ろから見て、全体に気を配りモードになるとプロデューサー目線になります。

虫の目、人の目、鳥の目といいますが、様々な視点で講座を見ています。

ちなみに虫の目はレンズで拡大して細かい所を見る目線であり、人の目は等身大の目線であり、鳥の目は俯瞰して大局を見る目線です。

セミナー運営、プロモーション・・・様々なことを学びました。

肝心な講座は・・・うん、新しい自分で世の中と関わっていきます。

 

講座で改めて、人の才能を見つける才能あるということを確信しました。

これも言葉を変えると、他人の才能に興味を持っているということです。

人の観察は大好きだし、モノマネも好きだし、人の心理も大好きだし、人の動きだったり、無意識だったり、もう才能は僕の興味の宝庫です。

才能って比較の問題です。自分1人で生きているなら才能があるとかないとかいう話はでてきません。

多くの人の中にいるとその人の特徴が見つかるのです。

全員がロボットみたいに同じではなく、人間というはバラツキがあるんです。

それが特徴。特徴だから、良い面と悪い面はもちろんあります。

良い面は良い面として使い、悪い面を良い面として使うと才能と呼ばれるものになります。

 

来年はさらに、才能を発見して、世の中にデビューするお手伝いをしていきますよ。

半年コースを作りましょう。

才能心理学の北端さんの目線も取り入れつつ、僕の目線を大事にした講座にしていきます。

多くの人から見ている視点が違うと言われるのだけれど、自分ではわからないんですよね。

だって、持って生まれたものだから。

才能を見つけあう講座にしたいですね。

 

才能心理学を知りたい人は、
北端 康良(著) 自分の秘密 才能を自分で見つける方法
を読むことをおススメします。

過去の偉人の文献を調査して、才能心理学目線で語っています。


ホリスティック医療から統合医療へ

WHA(ワールド・ホリスティック・アソシエーション)でセミナーをしました。

新潟でのセミナー(連携する医療WHA)に続いて今回は東京開催でした。

以前からそうなんですが、集まる人によって講演の内容が変わります。

情報を伝えることよりも情報をいかに活用していくかに時代の流れは向かっています。

それも今までの自分の経験をふまえて未来の自分を創り出すように頭だけでなく腑に落とすことが大事になります。

参加者どうし、講演者どうし、講演者と参加者・・・場にいる人すべてが参加しているようなセミナーが好きですね。

新潟とやっぱり内容は違います(笑)

 

僕が心に響いたのは「心とは何か?」ということ。

辞書で調べると・・・

 人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。精神。心情。

とある。

ふむふむ。わかったようなわからないような。

 

では、「心がない」ものって何でしょうか?

さらには、「心がある」ものって何でしょうか?

考えてみて下さいね。自分で考えることで見えてくるものがあります。

 

人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。」を見て見ると、働くという言葉がでてきます。

この感じを分解すると「イ」と「動」というように分解できます。

「イ」は「人」を表します。つまり「人が動く」ということですね。

心というのは人が動くということなんです。

 

WHAでは復興支援もしています。「心の復興支援」をする時に、それは何だろう?と自問したそうです。

心の支援とは、「相手が動けるように支援すること」という定義を付けました。

これが一番大切なことです。自分が動いて何かをするのはなく、相手が動けるようにサポートしていくこと。

お金やモノや情報を与えるのではなく、その人がそのお金を得たいとと動けるようになったり、モノが欲しいと動けるようになったり、情報が欲しいと動けるようになることなんです。

一方的に与えられているだけというのは、飼われているようなもの。

人間の尊厳が奪われていきます。

自分から欲しいと望むことが人間である証なのかもしれません。

 

僕の講演のテーマは「健康で生きるために大事なたったひとつのこと」でした。

ブログを読んでくれている方にはバレバレなのでしょうが、この答えは「ワクワクすること」です。

では、「ワクワクする」ためには、どうしたらいいでしょうか?

答えのひとつは、「夢」を持つことです。

夢の本質は心です。自分が自発的に動きたくなるような夢を持つことです。

心が動きたくなるというのは「感動」でもあるのです。

「夢」には「感動」がつきものですね。目に見えないけれども確実にあるものなんです。

誰もが夢を持っています。持っていないという人は、忘れているだけなんです。忘れさせているという場合もあります。

夢を持てない状態というのは、元世界銀行の副総裁をされていた西水さんの著書を読んでいてわかりました。

毎朝、水をくんで、次は何をして・・・それを毎日毎日繰り返す生活。そして、自分の子供たちも同じことを繰り返していくイメージしかできない。

これは人間の生活ではなく、ただ動物のように生命を維持して生きているだけという状態。

「想像してごらん」とあるミュージシャンは言っていたけれど、夢を想像ができるというのは、人間が人間であるために必要なんですね。

ある政治家は「私には夢がある」言っていました。

希望がある未来を夢見ることが、健康な人間なのです。

自ら動きたくなるのが人間なんです。

 

そんな話をさせてもらい、最後にみなさんの夢をシェアしていただきました。

筋反射を使って確認したので、よりその人らしい夢がでてきて、人それぞれに宿る夢ってやっぱり素晴らしいなと思いました。

個人的な夢であろうが社会的な夢であろうがどっちでもいいのです。

自ら動きたくなる夢が大切なんですね。

 

タイトルの「ホリスティック医療から統合医療へ」への前置きが長かったですね。

これは、日本でのホリスティック医療への試みが海外のものとは違い誤解されて入って発展してしまったという話がでてきたのです。

これからは統合医療になっていくという話でした。

 

言葉の定義をちょっとだけ紹介しておきます。

代替医療
世界各地で古くから用いられている伝統医学、民間療法などの、現在主流の西洋医学以外治療法を総称して呼んでいる。英語の Alternative というのは「代わりの」という意味である。「現状に替わり得る」という事で使われている。ただし「西洋医学にとって替わるというものではないという事で Complementary つまり補完医学という言い方もある。

ホリスティック医療
病気は何らかの働きかけによって、患者自身の自然治癒力が活発になり癒されるものであるという全体論的な考えに基づく医学思想で、治療に患者が積極的に参加し、医師は患者を支え援助するものであるとする。様々な治療法を総合的に組み合わせたり、いろいろな観点から患者全体を見ていこうとするやり方。

統合医学
インテグレティブ医療といわれ、緊急医療には西洋医学、生活習慣病には代替医療というように、それぞれの得意な所を併用すればいいという現実的な考え方で、患者にとっては望ましい。原理の異なる様々の医療体系をミックスするのではなく使い分けることをワイル博士らが主張している。背景にインフォームドチョイスなどの患者の人間性を尊重しようとする患者主体思想の社会的浸透がある。

(参考文献 サンフランシスコ州立大学の保健教育学部長のホリスティックヘルスプログラムのエリックペーパーのテキストより)

来年は、この活動に積極的に関わっていきそうです。

WHA講師

12年ぶりのスーツ姿。こういうのもいいね。